当院に転職された先生方のご紹介

当院に転職され活躍されている3名の先生をご紹介します。それぞれに転職記を書いていただきましたので是非、ご一読ください。

 

総合診療科・外科 上野 滋

総合診療科・外科 門田 一宣

泌尿器科 片山 泰弘

 

 


総合診療科・外科・小児肛門外来担当
上野 滋(うえの しげる)


第三の人生を送る -岡村一心堂病院でのしごと-

ふるさとである岡山に居を移し、岡村一心堂病院に常勤医として勤め始めたのは2021(令和3)年4月。もう2年近く前になるとは・・・光陰矢の如しです。前年の2020年9月、生まれてから65歳の定年を迎えるまでの自分の歩みをまとめた業績集「学びの記録-感謝と誇りとともに-」をつくりました。その中に、今後は「医師としての仕事を楽しみながら、健康に留意した生活を続け、残された人生を全うしたい」と記しました。いわば「第三の人生」を歩もうと思い、働きはじめたのがこの病院です。生まれてから両親の元を離れるまでが第一、医師となり関東の地で小児医療に専念したのが第二の人生というわけです。

岡村一心堂病院との縁は、帰郷しようかと思いつつ、仕事を探し始めた2018年にさかのぼります。当時の日記をていねいに探すと、同年3月10日に岡山で高校の同級生3名と食事をした記録が残っていました。この時に同席したのは泌尿器科医のDr.Iで、彼に岡山で働く場所はないかと相談しました。その後、Dr.Iの指導医であられた片山泰弘先生が勤務されている当院はどうか、と打診がありました。初めて病院を見学、岡村理事長以下の幹部にお会いしたのが、同年11月15日、翌年2月16日に片山先生、Dr.I、小生の3名で会食、働いてみようと決心しました。岡山に居を構えた最大の理由は、65歳で定年退職を迎えたとき、90歳を超えた両親がふるさとの岡山でこの世にいたということです。私が帰ってくるのを待っていたというのは感傷的に過ぎますが、高校卒業以来親元を離れ、孝行らしいことをして来なかった長男として、すこしでも恩返しをしたいという気持ちのほうが、50年近く暮らしてきた関東で過ごしたいという気持ちより強かったということになります。家内も同意してくれたのには感謝しかありません。とはいえ、医師としての仕事については、この決断はけっこう無謀なものでした。というのも、私の専門領域は小児外科、主に15歳までのこどもたちを手術することを専門とし、非常に特殊な領域であったからです。成人診療の経験は、研修医時代と、40歳以降の週1回のパート先の病院や医院での外来やデイケア施設でのそれしかありませんでした。そのような経験が当院で通用するのか、あまり自信はありませんでしたが、まずは、週1日の非常勤の外来担当医として勤めはじめました。2019年4月からです。そして2年間、神奈川県の2施設と岡山県の当院で働くため、神奈川―岡山間を週一回往復しました。その間の2020年、周知の如く、新型コロナウィルスパンデミックが世の中を一変させ、緊急事態宣言が発出されました。幸いにも、感染することもなく、病院の許可の下、移動を続けながら、無事勤務を続けました。

2年間外来勤務するあいだに、岡村一心堂病院にどのような患者さんが来院されるかがわかってきました。看板に掲げている、「救急、がんと心臓疾患を中心に“かかりつけ病院”として地域医療」を担う病院の診療がどのようなものかがわかってきました。そのために必要な知識は、前任の大学図書館から借りた本や教材から、日々接する看護スタッフや薬剤師、常勤医の先生方から得ることができました。そして、2021年4月から総合診療科・外科の常勤医師として働き始めました。診療の現場は、それまでおこなっていた救急を含む外来業務に、病棟業務、そして全く未経験であった透析室業務が加わりました。これらの業務に必要な知識や技能は、非常勤医として働いていた2年間で身につくものではありませんので、勤務当初、診療はそう簡単ではありませんでした。さまざまな疾患や病態を持つ患者さんを外来だけでなく入院、透析室で継続的に診なくてはなりません。救急患者の初期対応やかかりつけ病院としての診断・治療、認知機能低下・意識障害・夜間譫(せん)妄といった病態への対応、腎不全・心不全の終末期医療、次々に受診・入院する患者さんへの日々の対応が新たな日常になりました。2年近くを過ぎた今、何とかやっていられるのは、病院長をはじめとする同僚医師、地域連携室、メディカルクラーク、看護師、薬剤師、栄養科、リハビリスタッフ、透析を担う臨床工学士、検査室や放射線スタッフ、事務職員、すべての職員の方のおかげです。週4日半の勤務は結構忙しい日々ですが、ほとんど超過勤務することなく過ごせています。

これまでの4年近くの経験を振り返ってみると、今まであまり経験してこなかっただけに診療は新鮮そのものでした。多くは自分より年上の高齢患者さんで、90歳を超えるいわゆる超高齢者の生きざまや旅立ちに接する一方、未就学のこどもたちを育てる若い世代の悩みや苦労、生活習慣病をかかえた中高年患者さんへの啓蒙や指導、高齢者の家族への対応に日々苦慮する一方、小児医療から得られる満足とは一味異なる楽しさ喜びを味わうことも多い日々です。これまでの小児診療に携わってきた経験を活かし、「零歳から百歳まで」をモットーに、元気に勤務しています。第三の人生が始まったばかりのこの4年間に、両親は他界しました。母はコロナ禍直前の2019年12月に94歳で、父はコロナ第7波のさなか2020年9月に97歳でした。母は父と息子たちに看取られながら、父は岡村一心堂病院に入院させてもらい、私自身が看取ることができました。面会制限される中で毎日のように顔を合わせ、ちょっと前まで普通に行われていた旅立ちをさせてあげられたのは、せめてもの親孝行であったと自負するとともに、病院の皆様に深く感謝しています。

2020年から短歌を詠みはじめました。最後に、帰郷と就職を機に詠んだ歌をご紹介します。

朝霧の上に浮きたる備前富士「これからよろしく」吾は帰り来ぬ
リクルートスーツの君らと並び立つ老医の吾も仲間となりて
理事長と呼ばれる人の若ければ一心の輩(やから)みな輝けり

これから何年間働くことができるかわかりませんが、先日行った職員健診結果では、健康体のようです。「動く、食べる、考えること、これすなわち生きること」がもう一つの私のモットーです。元気に診療を続けるのが私の「第三の人生」、と思っています。

 

 

 


総合診療科・外科・肛門外来担当
門田 一宣(もんでん かずのぶ)


私は現在65歳となり前期高齢者の仲間入りをしたのですが、ここ岡村一心堂病院で充実した医師生活を過ごしています。ここに至る経緯を簡単に述べてみます。私は出身は岡山県倉敷市で高校まで地元で育ち、大学で京都に行った関係で留学などの期間を除き医局の人事で病院をいくつか移動し、ほぼ京都で生活してきました。そのまま京都に居続ける選択肢もありましたが、一人暮らしの母が90歳と高齢になってきたこと、都会ではなく適度な(?)田舎での生活への憧れ、など漠然と岡山に帰ろうという思いはいつの頃からかありました。決め手となったのは娘に子供(私たち夫婦にとって初孫)が生まれることになり医師夫婦である娘の手助けをしたいという家内の意見です。家内の実家の徳島にも近いという利点もありました。医局は円満に退局できることになりましたが、当然今後も医師としての仕事は続けるつもりでしたので、自分でいくつかの医師転職サイトに登録し病院を探すことにしました。これが2017年3月頃だったと思います。在宅医療のクリニック、老健施設、リハビリ病院などの紹介を見ても、もう一つピンとこない自分がいました。外科医としてのスキルをもう少し発揮できる病院はないかと思っていたところ岡村一心堂病院を紹介されたのです。2017年12月に病院を訪問し見学と面談を受けました。予めホームページを見て病院25周年記念誌を隅から隅まで読んでいたので大体のことはわかっていましたが、実際に見てみると病院の設備は非常に充実しており、理念にも共感できました。会う人ごとに笑顔で挨拶してくれ、各職種とのチームワークがとても良く働きやすそうな病院という好印象でした。幸い採用通知を頂き2018年5月1日に入職しました。性格から馴染むのに時間がかかる人間ですが、今まで勤務した病院どこであっても真面目に勤務に励み、その時その時にベストを尽くすことを私のポリシーとして来ました。そうすることにより次第に組織に受け入れられることを学びました。当院に来て外科のお手伝いだけでなく、以前から行っていた内痔核のジオン硬化療法を導入し症例数を増やしました。総合診療科として外来も担当しています。いくつかの委員会に所属したり役職を頂いたりしています。また産業医の資格を取らせていただき産業医としても動いています。今では皆さんに受け入れて頂いていると信じています。実際当院ではやりたい事はほとんどが望める環境が整っていると思います。コメディカルの方達は意欲がありとても協力的です。働きやすい病院であると断言できます。おすすめです。

あとどのくらい働けるかはわかりませんが、10年は頑張ろうと思います(勤続10年のハワイ旅行を目指して・・動機がやや不純)。一緒に地域医療を盛り上げませんか!

 

 

 


泌尿器科 片山 泰弘(かたやま やすひろ)


老医の戯言

 私は現在78才ですがこれまで重ねて来た経験を活かし岡村一心堂病院の常勤医として元気に働いています。顧みますと医局生活10年、次いで自治体病院30年余、そしてこの岡村で13年と勤務医生活は悠に半世紀を越す長さになりました。34才の時、さる自治体病院への出向は医局の人事、昭和50年代初めの事で勿論拒否権無く、迷う事も無い出陣でありました。新しい職場で片山流泌尿器科を開花?させつつ黙々と働く中、いつしか定年近くになりサテ次を如何するか、今度は自らの責任において決定せねばならず大いに悩みもしました。
その時次の勤務先を決めるに当り私が考えた事は1)自分の健康状態、2)自分の希望と病院の要望、3)病院の設備など医療提供体制、4)病院の熱意、5)交通の利便性・気候、6)医局との関係、7)伴侶の意見等でした。

決定に到る前後に去来した思いは別項にも認めましたが、私の条件7項目を総合的に判断し岡村一心堂病院に勤務する道を選択しました。爾来臨床の方は別項に記した如く順風に乗り院内外の評価も頂ける様になり、また院内での取組み、対医師会・対医育機関との話など愉快な事が沢山有りましたが、紙面の都合で割愛。また何処かでお会いした折続きをお話し致しましょう。
と言った感じでこの13年間を”医以楽之(医シテ以ッテ之ヲ楽シム)”を座の右に置いて勤務医人生を楽しんでいます。今になって考えますと1)2)7)は当然の事として長い間私に変わらぬ恋文を送り続けてくれた病院の情熱即ち4)に”人生感意氣”じたと言えましょう。

自分の健康状態
漢の大将軍韓信の言に”人ノ車ニ載ル者ハ人ノ患ヒヲ乗セ、人ノ食ヲ食スル者ハ人ノ事ニ死ス”とあるが、請われて勤務するにしても入職すれば人の碌を食む身として先ず古稀迄は事無く責務を果たさねば仁義に悖ると、GF・CFを始め各種画像診断を受け甲種合格、先ず後顧の憂無く碌を食む決断が出来ました。今では同年代に比べ元気な方と思っていますが、昭和18年生れ、戦後の食糧難の時代に育ち、中学校まで青瓢箪と揶揄されていた私、また大学入学以来厄年まで紅燈の巷を徘徊しつづけた私が、78才の今に到る迄この健康を保てたのは、結婚50年以上切れそうな凧の糸を懸命に操ってくれた伴侶の成せる業と感謝、これからは少くも傘寿まで岡村一心堂では医療に励み内では老妻の支えになろうと心掛ける日々であります。
 
医師の希望と病院の要望
就職を希望する医師とそれを求める病院はお互い見合結婚を目指す様なものであり、履歴書や求人情報が釣書・身上書の類と喩える事が出来ましょう。平成の中頃までは病院のHPは稀でしたが、それでも臨床の傍ら学会や研究会等を通じて色々の病院の情報も得る事が出来、これも定年後の病院選択に役立ったと思っています。今は情報過多ですが興味ある釣書があれば早くお見合する事をお薦めします。自分の目で病院を視、職員の声を聴き雰囲気を肌で感じる事が肝要、釣書の裏側を観る目を持ちながら・・・・・・。
 
医局との関係
以前から60歳を過ぎて碌を食む場所を医局にお願いするのは自分の信条に悖ると考え、医局との柵の無い病院を選びました(岡村一心堂と母教室とは今迄無縁)が、後で教授を始め同門の連中は随分驚いたと聞きました。勿論入職後に院長と共に教授に面会し、事前に相談しなかった事をお詫びしました。これも今後の為に大切な事であります。その後初めての常勤だった事もあり地区医師会の先生方に重宝され患者数・手術件数が年々増して来、古稀近い一人医長では対応困難な事態となり医局にお願いしてパートを頂く事3年、今では50歳余の先生と二人体勢となり、関連病院に加えて貰って現在に至っています。34才で医局を離れ、教授も2代代わりましたが母教室は有難いものです。

伴侶の意向
粗大ゴミには到らぬものの徐々に家庭内での地位低下が否めぬ我が身にとりこれの同意無くしてことは運べません。自治体病院定年の折、目に余る医師不足の東北地方、將又四国の南予等男の浪漫をかき立てる地への思いも具申しましたが、敢え無く否決されました。その折些か鬱勃としたが、これも今思えば冷静な判断であり、これ迄の私のターニングポイントで常に適切な方向を示唆してくれた老妻に感謝している。